日時: 2011 年 12 月 20 日
場所: 府民ホールアルティ
バッハと同時代を生きたヴァイス(1686~1750)はバロック・リュートの大家であり、この楽器のために数多くの作品を残しました。
このFantasieはそうした作品の中の独立した小品で、小節線のない自由で即興的な前半部に始まり、後半部の小規模なフーガへと続いていきます。
僕は今回この曲に取り組んだことで、以前よりもだいぶ成長できたような気がしています。
まだまだ拙い演奏になるかと思いますが、言葉では言い表わせないこの曲の美しさを少しでも伝えることができるよう、頑張りたいと思います。
山崎 智史 (文 1) |
ベースは失敗を恐れない気持ちとラテンのノリ、スパイスは自分らしさと少しのエロス…そんな演奏目指して頑張ります。
綿井 博康 (農 2) |
作曲者は現代の人ですが、中世あたりの風景が広がってくるような素朴な曲です。
個人的にはⅠは煉瓦造りの街並み、Ⅲは村の収穫祭を妄想してますが。
みなさんも思い思いに妄想に耽ってみてください。
幡地 祐哉 (文 3) |
Claude Debussyは、19世紀末、それまで調性の概念に縛られていた西洋音楽界に一喝を入れるように、斬新な和声や音階を多用した作曲をしました。
いわば当時における最もRockな音楽家の一人です。
しかし、彼の音楽は決して独り善がりではありませんでした。
それが表れているのがこの曲、Clair de Luneと言えるでしょう。
随所随所に変態的なリズムや和声を交えながらも、全体としては不思議とまとまりのある美しさをもち、聴き手に歩み寄る音楽・・・
それまで規律的な音楽しか受け入れられなかった人々も、この曲には心を動かされずには居られなかったことでしょう。
このように、馴染みのある美しさで人々の耳をいわば騙しつつ、こっそり革新的な音楽の在り方を世間に広めていったところに彼の偉大さがあると思います。
言わずと知れた、ドビュッシーの「月の光」。
元々はベルガマスク組曲というピアノ曲のうちの一曲です。
演奏いたしますのは、これまた気分屋なギター弾きの二人。
甚だ惑う時あり、耽美に委ねる時もあり、全く駄目な時もあり。
ドビュッシーの色彩を捉えようとして日々ギターを爪弾きます。
演奏ごとに音色は常に均しきにあらず。
ちなみに、定刻通り練習が始まったことはまづ無し。
月の光――その色・その輝きは、時には人を魅了し、時には人を狂わせます。
果たして、今宵の月の光は何色であることでしょう。
広田 連 (理 2) | |
阪本 浩太 (文 2) |
カンタータ208番はバッハの作としては現存最古の世俗カンタータで、ある領主の誕生日をたたえるために作られたものです。8人の新入生による美しいメロディの重なりをお楽しみください。
conductor | 河村 悠太 (教 2) |
---|---|
1st | 本多 信太郎 (工 1) / 兒島 清志朗 (工 1) |
2nd | 宇野 匡範 (工 1) / 山崎 智史 (文 1) |
3rd | 岸本 明子 (文 1) / 良永 裕佳子 (工 1) |
4th | 井川 桃子 (総人 1) / 内山 隆太 (理 1) |
皆さん本日はお越しいただきありがとうございます。しかしこの演奏会は真面目なクラシック曲ばっかりで少々堅苦しいかな、と思われる方もいらっしゃるでしょう。そこで「ポップで楽しい曲をやろう!」という意思の元に私たちお茶目でイカした(?)メンバーが集結したわけです。
曲は洋楽ナンバーというより、ジブリの名作『耳をすませば』で日本人には馴染み深いことでしょう。原曲の歌詞では「故郷が懐かしい、帰りたい」といった内容が歌われていますが、『耳すま』の中で主人公が歌う日本語の歌詞では「帰りたい、けど帰れない。さよならカントリーロード」という内容になってるんです。胸に秘めたる決意なのか、それとも故郷で何かやらかしたのか。(詳しくは映画見るなりググるなりして下さい。)
それはともかく、ここでは故郷を思う寂しさを覗かせながらもやっぱり楽しい演奏ができればいいな、と思います。楽しんでもらえれば嬉しいです。
1st | 横山 大稀 (農 3) / 綿井 博康 (農 2) / 井川 桃子 (総人 1) |
---|---|
2nd | 中西 智宏 (工 3) / 小島 千鶴 (文 3) / 河村 悠太 (教 2) / 岸本 明子 (文 1) |
3rd | 幡地 祐哉 (文 3) / 増岡 千裕 (農 3) / 宇野 匡範 (工 1) |
4th | 橋村 秀典 (理 3) / 近藤 望 (総人 3) / 桑原 範好 (工 3) / 山崎 智史 (文 1) |
アリアと変奏。
この曲に出てくるアリアちゃんは病床に臥している女の子。
丘の上のサナトリウムで日がな一日、外の景色を見続ける…。
「私にとってこの風景がすべてなの。」
そういう彼女の絹のような黒髪が、風にたなびき、幽玄の美となって映る…。
というのはただの私の妄想で。
本当はアリアちゃんは暗殺一家に育てられた殺し屋。
あらゆる暗殺技術に精通し、どのような状況下でも殺しを行う。
「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ!」
独自の美学を持つ彼女の銃口から、今日も一筋、煙が美しく立ち上る…。
上記は全て嘘ですが、フレスコバルディという作曲家の自由奔放な作風を私なりに表現 してみたわけです。はい。フレスコバルディはバロック初期のイタリアの鍵盤奏者、作曲家であり、その影響は弟子のフローベルガーやあの有名なJ.S.バッハにも及びました。フレスコバルディは記譜されたとおりの平板な演奏をいましめ、テンポに緩急をつける比較的自由な奏法をすすめています。これは今まで自由(自堕落)な生活を送ってきた私にぴったりではないか!と思い今日演奏しようと決意しました。この曲は変奏曲であり、
主旋律が舞曲のリズムによって姿を変え、度々登場します。そういった変化の中で私が感じた大胆な場面転換や抒情的な様子、雄々しい低音旋律の響きなどを表現しようと思います。
竹田 和樹 (工 3) |
たまにはゆっくり立ち止まって周りを見回してみると、世の中って実は綺麗なもので溢れているんじゃないかって、そう思うことがあるのです。
それは例えば、自然が見せるさまざまな風景を目の当たりにした時かもしれません。
川べりのしだれ柳は、ただ風のままに揺れます。大きく、小さく、川面近くまで垂れ下がった細い枝がせせらぎの光を宿して、ゆらり、ゆらりと優しく流れていきます。そんな穏やかな光景の中にいると、時が経つのも忘れて、いつまでもそこに座っていたいような、そんな気持ちになるものです。
そしてこの季節になると、時より真夜中過ぎから雪が舞い始めることがあります。雪は徐々に激しさを増し、しぃんと澄んだ空気の中で音もなく降り積もり、降り積もり…。明日の朝窓を開けたら、向こうの屋根も、あそこの道路も、きっと真っ白になっているだろうと、そう期待に胸を膨らませつつ、眠りにつくのです。
そんな2つの風景の、美しさ、儚さ、温かさ、静けさ、愛しさや切なさを、何とか自分の拙いギターで表現できないかと、いろいろ苦心してはみたのですが、うん、どうなんでしょうね…。でもとりあえず頑張ってみるので、ゆるりとした気持ちで聞いていただけるととても嬉しいです。
小島 千鶴 (文 3) |
簡単に言うと、Bourreeは速い2拍子系の舞曲で、Sarabandeはゆっくりとした3拍子系の舞曲です。
特徴は異なっていますが、どちらも温かさを感じさせる曲です。
イメージとしては、冬の寒い日に暖炉の前で子どもが楽しそうに踊っているのがBourreeで、女性がしっとりと踊っているのがSarabandeです。
皆さんはこの曲を聴いてどんな場面を思い浮かべるでしょうか。
メロディーだけでなくベースの動きや美しい和音、時々出てくる「おっ」と思わせるような和音を聴いてもらえたらいいなと思いますし、聴かせられるような演奏をしたいと思います。
増岡 千裕 (農 3) |
この曲はシューベルトの歌曲として大変有名ですが、ロマン派のギタリスト兼作曲家、メルツによって、美しい甘美なギターの音色を醸し出す作品へと成り代わりました。
セレナーデの本来の意味は「夕べに恋人の家の窓下で歌われる愛の歌」とあります。しかし、この曲からはそのような情景は思い浮かびません。誰もいない真夜中、独り空に向かって告白する男が目に浮かんできます。男が囁く歌は、静かでありながら、その内に秘めたざわめきが押さえきれず、溢れ出てくるようです。そして、男の心の叫びは夜の暗闇にこだまし、消えていく――――
この繊細さの中に秘めた巨大な塊に飲み込まれないように演奏し………いや、飲み込まれてしまえばいいと思います。そして、誰か。そんな僕を拾ってください。笑
横山 大稀 (農 3) |
テレマンという人はバロック後期、つまりJ・S・バッハと同じ時期に活躍した作曲家です。当時はその親しみやすい作風から非常に人気を博した人で、ある教会で次期楽長を探しているときに教会がテレマンにオファーを出したところ断られてしまったので「中くらいの音楽家で我慢するか…」と仕方なく大バッハを採用したとか。 そんな方が作ったこの曲は元々2台のリュートの為に書かれ、とても親しみやすく明るい曲調になっています。
序曲は符点リズムが特徴的なゆったりした部分、対位法的で急速な部分、再び落ち着く部分と3部からなる序曲の典型的な形式になっています。この緩・急・緩のギャップが見どころです。 ジーグはこのパルティータの終曲にあたる華やかな舞曲で、互いに競い合うかのような掛け合いが楽しげで締めにふさわしい曲となっています。
これほどに楽しい曲を残してくれたテレマンに心から感謝。まだまだバッハなんぞには負けません。是非この喜びが皆さんに伝わるように頑張ります。
谷 陽太朗 (理 4) | |
橋村 秀典 (理 3) |
「ヘンデルの主題」とは'陽気な鍛冶屋'の通称で有名なハープシコード組曲第5番の終曲「エアと変奏」のアリアを指します。ヘンデルが鍛冶屋の軒下で雨宿りをしていた時に、鍛冶職人のハンマーを撃つ音にピンときて書いたテーマだとか。(通称の由来は他にも様々な説があるようです。) ギター編曲は19世紀の作曲家、ジュリアーニです。
この曲は主題と6つの変奏からなります。軽く一言ずつ。
主題:きれいに、少し堂々と。
Var1:陽気に。
Var2:朗々と、楽しく。♪~( ̄。 ̄)
Var3:千鳥足。
Var4:よっしゃぁ!やる気出てきたぁ!(`∀´)
Var5:美しすぎて言葉にできません。(顔文字も無理)
Var6:華やかに駆け抜ける!≡≡≡ヘ(*゜∇゜)ノ
この曲を初めて聴いた時の衝撃はすさまじく、その瞬間に定演で弾く曲は決まりました。まさに一目惚れならぬ「一耳惚れ」ですな。僕の演奏でそれぞれのVariationの多彩な表情を感じていただければ幸いです。
中西 智宏 (工 3) |
キューバの作曲家レイ・ゲーラが日本のギタリスト大萩康司にささげた一曲。
何度弾いてもあきることのない、私が本当に大好きな曲です。
私の思い描くそのあくる日の「前日」が伝わるような演奏ができたらと思います。
河村 悠太 (教 2) |
『黒いデカメロン』というのは人類学者フロベニウスがアフリカで採集した民話をまとめて出版した本で、ボッカチオの『デカメロン』の黒人アフリカ版といったところでしょう。決して腐った巨大メロンではありませぬ。
ここで弾く曲はその本からインスピレーションを得て書かれた「黒いデカメロン」という曲集の中の第3曲でにあたる曲です。 のびやかなリズムが抒情的な美しい主題から始まり、その主題の展開のような部分を経た後に低音のモチーフが特徴的なpiu mossoに突入します。ここではメカニカルな低音リズムの繰り返し、和声の独特な響きが刺激的です。再び元の主題に戻った後に中南米の舞曲のように自由なリズムが躍動的なpiu mossoが現れます。ここでは音符が跳ね回る様を楽しみたいです。そして最後に再び最初の主題が姿を見せ昂揚の後の安らぎの中に曲を結びます。
正直私のように朴念仁な野郎では、恋する乙女について書こうにも全く何も書けませんしわからんのです…。しかしそれでもこれほどの傑作を演奏会で弾けることを誇りに思います。願わくばこの曲の素晴らしさを少しでも伝えられれば幸いです。
橋村 秀典 (理 3) |
この奇妙な名前の曲は、18世紀初頭に成立したと言われるフランス民謡から、ソルが題材を得て作曲したものである。民謡は、明るく親しみやすいメロディーをおどけた節回しで繰り返すのだが、歌詞はなんとも不吉である。
マールボロは戦争へ行ってしまう
ミロントン、トントン、ミロンテーヌ
いつ帰ってくるか分からない
彼は復活祭には戻ってくるだろう
あるいは三位一体の祝日には
三位一体の祝日も過ぎた
マールボロは戻って来ない
という風に歌は進み、とうとうマールボロは戦死し、埋葬されたという知らせが奥方の許に届く。「マールボロ閣下はお亡くなりになりました。」「私は閣下が四人の将校に埋葬されるのを見ました。」
この歌を子供たちが歌い、輪になって踊っているところを想像すると、僕は無邪気さと残酷さは表裏一体なのだとつくづく思う。そして、18世紀の人々、あるいはソルの時代の人々はどんな気持ちでこれを歌ったのだろうか、と考えてしまう。日本という国で僕たちが生きる時代、つまり死と戦争から目が背けられ、それらが日常から隔離されている時代にあってそれを想像することは許されるのだろうか。しかし、この曲を弾くにあたって僕は敢えてそれをやってみた。
華やかな制服に金ボタン、軍楽隊の演奏と進軍ラッパ、マスケット銃とサーベル。白い馬に股がっての、生死を省みない突撃。将校たちの社交とアヴァンチュール。流される鮮血、そして死。これらは全て貴族にだけ許された、命懸けの晴れ舞台である。この時代、野蛮は様式化されることはあっても、駆逐されることはなかった。死が間近に控えているからこそ、人生は真のドラマたり得る…。
これに対して人は言うかもしれない。「これは戦争を美化し過ぎたイメージだろう。お前はもし戦争になれば喜び勇んで出かけるのか」と。確かに、戦争は恐ろしいことには違いないし、僕は臆病だから、もし出征しろと言われたら、一目散に逃げ出すこと間違いなしである。さっきのように戦争を無条件に美化することは、軽率の至りでしたと謝らなくてはならない。
しかし、せめて音楽の中だけでは、過去の興奮に浸ることが許されても良いのではないか…。
最後に僕の好きな作家、トーマス・マンの『魔の山』から一つ引用をお許し願いたいと思います。
「死の冒険は生のなかに含まれ、その冒険がなければ生は生でなく、その真中に神の子たる人間(Homo Dei)の位置があるのだ、」(関泰裕・望月市恵 訳)
マールボロは名誉の戦死を遂げることができるのでしょうか。
鈴木 啓峻 (法 4) |
クリスマス、ときいてあなたが思い浮かべるのは何だろうか。
それはモミの木のてっぺんに光る星、真っ赤な服に白いひげのサンタクロースかもしれないし、
はたまた煌びやかな街のイルミネーションや、金のリボンの結ばれた贈り物だったりするかもしれない。
わたしがDVDで見た、ドイツのクリスマスはといえば
年末から新年へと続く、家族全員、あるいは町のひとびと全員で祝うお祭り、祝祭の始まりだった。
こどもたちは一ヶ月前からカレンダーをつけて心待ちにし、
その当日には選ばれたきれいな女の子が天使に扮し、行列を従えて町を練り歩いたりする。
日本に住むわたしたちにとって、その感覚は薄いひとが多いかもしれないけれど、
12月25日のクリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日だ。
バッハの作曲したこのクリスマス・オラトリオは、
キリスト誕生の物語を、主に伴奏つきの歌や語りで紡いでいく劇音楽で、
6部から成り、本来25日から6日間、一日一部ずつ演奏されていく。
第1部は聖母マリアがイエス・キリストを産むところまで。
第8番のアリアはキリストの誕生したよろこびを、男声のバスがこころのままに歌いあげる。
第9番のコラールは第1部の最後で、女声のソプラノから男声のバスまでの4声合唱が歌う讃美歌の合間に
天使のラッパのようなトランペットが鳴り響く、優しくも華やかな曲である。
第2部では、野宿する羊飼いたちのところに天使たちが現れ、救い主であるイエス・キリストの誕生を告げ
ともにキリストのもとへ行こうと誘う。始めは天使を恐れ、ためらう羊飼いたちだが、
最後には天使たちを信じてついていき、
揺りかごに眠る幼子イエスに子守歌を歌う。
その第2部の幕開けの曲である第10番シンフォニアは、6部全曲のうち唯一歌や語りのない楽器だけの曲。
第2部のストーリーを象徴するように、
柔らかな雰囲気の中にも天使と羊飼いの対話や羊飼いたちの恐れ、不安が現れ、
けれども最後にはどこか神秘的な部分を経て、明るく穏やかに終わる。
これらの三曲を、プロギタリストの塩谷先生編曲で、ギター4パートでお送りする。
わたしたちはそれぞれの経験をし、思いを抱いていく。
それらはもちろん、よいものからそうでないものまで様々だろう。
けれども時間はそれらと無関係に進み、季節は巡っている。
季節とともに訪れる祝祭は、そのことをわたしたちに思い出させる、終わりと同時の新しい始まり。
ギターの歌や響きとともに、会場のわたしたちが一緒の何かを感じられたら、と思う。
conductor | 近藤 望 (総人 3) |
---|---|
1st | 増岡 千裕 (農 3) / 橋村 秀典 (理 3) / 佐藤 秀昭 (経 3) / 兼近 悠 (工 2) / 正尾 裕輔 (工 3) |
2nd | 中西 智宏 (工 3) / 竹田 和樹 (工 3) / 綿井 博康 (農 2) / 阪本 浩太 (文 2) / 鈴木 啓峻 (法 4) |
3rd | 河村 悠太 (教 2) / 広田 連 (理 2) / 谷 陽太朗 (理 4) |
4th | 幡地 祐哉 (文 3) / 横山 大稀 (農 3) / 小島 千鶴 (文 3) / 久米 達也 (工 2) / 楠本 隆雄 (工 4) |